碧夏

 

「左馬刻くん……。薬は、出せません」
「あ?なんでだよ」

低く、唸るような抗議の声。

「彼女は上気道炎、いわゆる風邪です。この程度であれば、安静にしていればじきによくなります。点滴や、手術といった必要は全くありませんよ」

ぽわぽわと後ろがあたたかい。目の前のすらりとした白衣の男性の手が、背中にそっと当てられている。大きな手のひらから伝わる体温と、その医師の低く穏やかな声音はさっきまで悪寒で震えていた身体をじんわりとほぐしていく。

「センセイ、そんなわけねんだわ。ソイツ、ぶっ倒れやがったんだぞ?メシの途中で。食欲ねえとか言いやがるし。コイツが食欲ねえのはマジでありえねえ」

喉の痛みでうまく声が出ないので、む、と口をへの字にして左馬刻を見た。食欲のところはそんなに強調しなくていいのに。たしかに朝ごはんは食べたくなかったし、フラフラして頭が痛くてふらついたのは私だけれど。

左馬刻はときどき、とんでもなく過保護になることがある。それはくすぐったくて、ちょっと困ったところで、とてもとてもとても、大好きな彼の一面だ。

いつもの朝ごはんが喉を通らない。水を飲みくだすのさえ痛くて眉をしかめた。
風邪引いちゃったなぁ、と心の中で呟きリビングの薬を取るために椅子から立ち上がる。その拍子で立ちくらみが起こり、ふらりと身体が揺れて椅子へとへたり込む。

オイ!と声が聞こえて、気づけば左馬刻に抱き上げられて、エレベーターに乗っていた。

地下駐車場で後部座席に押し込まれたかと思うと、ものすごいスピードでマンションから出る車。

「さまとき?ちょっと… 」
「うるせえ喋んな!黙って寝てろ!」

ちょっと…

部屋着のまま、後ろの座席に横たえられている私の声が聞こえているのかどうか、彼はまっすぐ前方を見据えたままハンドルを切っている。普段自分で運転なんてしないのに。

窓の向こうの景色がものすごい速さで流れていく。頭の痛みをゆっくりとした呼吸で逃しながら、しばらくそれをぼうっと眺めていた。やがて車は激しい運転とはうらはらに、意外なほど静かに止まる。フロントガラスからは威圧的な灰色の建物が見えていて、左馬刻の怒鳴るような早口が聞こえてくる。

「オイ銃兎!早く出てきやがれ!こんなトコで長い時間停まってらんねんだよ、急げ!」

電話をしていたらしい左馬刻の指が、ハンドルをトントンとんとん不規則に叩く。不意にそれが止んだかと思うと、次は煙草のフイルムををぺりりと剥がすおなじみの音が聞こえた。かと思ったらすぐに静かになる。

クソ、吸わねえほぅがいいよなぁ?と舌打ちまじりの独り言が聞こえた。わたしはだいじょうぶだよ、と伝えようとしたら、助手席側のドアがいきなり開いた。

「どうした!左馬刻、なにかあったのか?」
「おっせえな!」

ちょっと待ってろよ、と左馬刻はわたしをちらりと見て外に出ていった。
上体をゆっくり起こす。
喉の痛みと、頭痛がひどい。背中に張り付いた悪寒はさっきより強くなっている。熱が出てきたかもしれない。

シートに背中を預けため息をついていると、後部座席のドアが遠慮がちにノックされ、ゆっくりとドアが開いた。腰を屈めて顔をのぞかせたのは、今日も黒いスーツがびっちり決まっている入間さんだ。どうやらここは、ヨコハマ署らしい。

警察署なんて、左馬刻は絶対に自分から来たりしない。連れて来られるのは別として。

「おはようございます、メグさん。お加減いかがですか?」
「おはよございます… すみません。風邪で、ちょっとふらついちゃって… 」
「ちょっと失礼」

彼は赤い手袋を外し、手の甲を私の額へちょん、とのせる。ひやりとするその感触に、発熱を自覚する。

「すこし、熱が高そうです。呼吸も荒いですね。早く帰って横になるといいですよ。まったく、左馬刻も心配性ですね」
「ありがとうございます、お仕事中だったのに」

彼はにこりと笑って、ゆっくり休んでくださいね、これをどうぞ、とスポーツドリンクのペットボトルを私の膝へそっと置いてくれた。

「左馬刻、彼女はただの風邪だと思います。家に帰って、早く寝かせてあげてください」
「アイツ、めまいがするとか言ってただろ?」
「じゃあ、貧血かもしれないな」

ドアの向こうでくぐもった声の応酬が始まった。最終的に、入間さんの大きな声で締めくくられる会話。

「わかったわかった!!ならシンジュクまで行けよ! 天才医師に診てもらったらいいだろうが!!心配なんだろ?早く行けクソボケ!」

**

「喉が痛ければ、口数も減るでしょうし、食欲もなくなります。ふらついたということですが、」

美しい紫の髪を後ろでひとつに束ねたその医師は、私の手をとり観察するように眺めた。

「たしかに、少し貧血気味かもしれませんね。鉄分、ちゃんと取れていますか?」
「あ、えっと、あまり…… すみません…」
「大事な栄養素ですよ?きちんと食事に組み込みましょうね?」
「はい、すみません」

優しく諭され、素直に頷く。

「では、もう帰っていいですよ。念のため、ビタミン剤を処方しておきますが、食事から取るのが一番だからね。ところで」

カルテに書き込みながら、彼はドアにもたれている左馬刻へと声をかける。

「左馬刻くん、君も彼女が大切なら、自分の身体も大事にしなければいけないよ」

思わぬ矛先が自分へと向けられて、左馬刻は髪をガシガシとかきあげながら、わかったよ、とむっつり答えていた。

低く優しく、睡眠が一番ですよ。と微笑む長身の医師を前に白く清潔な診察室のなか、教師に諭された生徒のように二人して並ぶ。左馬刻の腕は、いつのまにかわたしの背中にしっかりと回されていた。

「はい、すいません、診て頂いてありがとうございました」
「……おう。…センセイどうも、ありがと、うございました」

「はい、それではお大事にね」

左馬刻は、帰りは助手席に乗せてくれた。

「身体、つれえか?」
「…うん、でも、ちょっとましになったよ」
「ん」

短く返事をして、ハンドルに手をかける。
行きよりもだいぶゆっくりと流れる外の景色は、午前中の爽やかさをまだ残していて、並木道の緑がきらきらと揺れていた。

やがて車はマンションの駐車場に静かに滑り込んで行く。ドアを開け降りようとした私を制して左馬刻はこちら側へと回ってきた。

「ほら」

肩と、膝裏にそのがっしりとした腕を差し込み、また私を抱え上げようとする左馬刻。

「えっ、いいよ。歩けるよ」
「いーから。 連れ回したし、疲れてんだろ」
「そんなの、だって… うれしかったもん…」

「ばっかじゃねえのオマエ」

左馬刻はふい、と目を逸らした。

「大事なオンナが調子悪くて、心配しねーヤロウなんかいねえだろ」

私は思わず両腕を伸ばした。彼の形の良い唇がすっと弧を描く。左馬刻は、甘ったれ、と白い歯を覗かせて私をぐい、と引き寄せた。

いつもより少しだけ高い位置から見る左馬刻の顔は、熱のせいもあるかもしれないけれど、びっくりするほどかっこよくて、肌も綺麗で、まつ毛が長くて。瞳の赤は、いつもより朱が深くてそのぶん柔らかだった。

私を抱え歩きだした彼の瞳は、さらに穏やかになる。重くてごめん、と小さく謝ると、ハァ?重いわけねーだろ、こんなん楽勝だわ、と強がってみせた。

なんだか今日は朝から、いろいろ胸が苦しい。風邪のせいじゃなくて、左馬刻のせいだ。
彼の何億個もあるいいところが一度に、わたしの胸に落ちてきたからだ。

だいすき、と首もとに顔を埋める。

耳たぶにちゅ、と心地の良いキスの音が響いた。

 

fin

 

 

40000hitアンケート短編企画、最後は左馬刻でした。
5月にやったので、だいぶ遅くなってしまいましたが、投票してくれた方々ありがとうございました!
楽しんでくれたら嬉しいです!